私は家出をしたことはない

というのも家出とは家から出ることをいうからだ。 子供のころ家出をしたことがあるという人の話を聞いてみると、夜中に親と大喧嘩して、外出して近所をうろうろして、近くの自動販売機で甘いコーヒーを買い、ふと夜空を見上げると星がきれいで、その星の眺めているうちにいつの間にか時間が過ぎていて、さらにふと携帯をチェックしてみると母親からのメールが届いたいたりして、もう少しこの近くを散策してから家に帰ろうか、みたいな話をする。よくある話で、これは家出ではない。

家出帰である。ちなみに「家出帰」という文字をどのように読めば良いかは知らない。イエデキとか?
そんな、家出帰話を聞いていると、もしこの世に家出というものがあるとすれば、それは本当の自立をさすのではないだろうか、と思った。金銭的に自分の生活を自分でまかなえて、友人も何人かちゃんといて、家族はいるかどうか知らないが、ペットでも何でも自分が大事に思う存在が家で待っている。

仕事をする理由がハッキリしている。これこそ人生の本当の家出ではないだろうか。
人は人生において、一度は家出をしなければならないと多くの大人たちが言う。それはその人間の自己形成にかかわるからだ。
ある人にとって家出とはふと外出してコーヒーを飲みつつ星を眺めているうちに何時間も時間が過ぎていくことだったり、ある人にとっては両親から金銭的に自立をして自分が大事に思うもののために社会に出て、仕事をすることだったりする。
つまり、家出をするということは、新しい家を自らの中に持つということであり、人は生きていく上で今のところ家というものからは逃れられないだろう。
家を得るために家を出てるのか、家を出ることにより家を得ようとするのか。卵が先か、鶏が先か。私は鶏が先だと思う。
何故なら鶏は他の生き物からの長い間の進化と変化の結果に生まれた生き物だからだ。
家もまた変容をしていく。人が家を出るのは新しい家を得るためだが、その家はその人が今まで所属していた家とは少し、または大きく異なる。家を出ることでその人は少なからず変化し、その人の求める家もまた変化するからだ。
変化が必ずとも正しいとは言えない。しかし人間が生きていく上で時代からは逃れられず、また逃れる必要もない。時代という無意識にとらわれない人はいない。今後も家の形は変容していくだろう。
もし、この世において家を完全に出た人がいるとすればそれはホームレスの人かも知れない。彼らは完全に自由である。
なので今のところ私は家出をしたことがないということになる。


line家出掲示板